疲れることはしない

読書・アニメの感想とかを気が向いたら書くところ

聖地巡礼についてのはしがき

完全に自己満な巷にあふれるブログ的なこのブログにも数日おきに数アクセスがあるのでネットはすごい。

大学で学芸大の千田洋幸先生の講義(通称文学部オタク講義、こんな感じで話題になった)のが今年の前期だったのだけど、今日なんとなく千田先生のブログを読んでいたら2016年版のスライドを見つけた。2.5次元的身体を与える近年のポップカルチャーの動向についてのものだったので、久々に聖地巡礼について考えていた。

アニメ・ゲームの聖地巡礼では、「虚構と現実の「あいだ」」の身体を巡礼者は獲得する。「アニメの風景を通して現実世界を見る」ことで「現実世界を上書き」する、というのがスライドに書いてあったこと。

響け!ユーフォニアムで登場する京阪黄檗駅近くのパン屋さん)

確かに聖地巡礼をしている時は現実世界の風景として、というよりはアニメの風景として眼前の風景を見ている。(もしかしたら宇治の河原の方が↑のようなパン屋さんよりはその度合いが高いかもしれないが、いずれにせよ「アニメの風景だ」というのがまず初めに来る。)

しかしここで、「(実写)映画やテレビロケ地の聖地巡礼とどのように違うのか?」という疑問が生じる。アニメの聖地巡礼の魅力について語った時はたいていその魅力を訝しむ聞き手のまなざしを(被害妄想的かもしれないが)感じ、「ほら映画とかと同じで」と言ったりするものだが、果たして同じなのだろうか。

それには映画の虚構性がアニメ・ゲームと比較してどの程度のものなのかということを考える必要がある。さすがに虚構性が低いと言ったほうが自然だと思うのでそうしておけば、「虚構と現実の「あいだ」」に自分が入り込んだという特有の感動的な感覚もまた薄いだろう。

映画の中の風景は当然現実に存在する風景として認識される。とすれば、映画の聖地に訪れて得られる感覚は「虚構と現実の「あいだ」」ではなく、「ここで撮影が行われていたのだ」という程度の、歴史的名所を訪れた時の感覚に近いのではないか。(TVロケもこれと同じかもしれない)

ただ、その聖地にいる時にキャラクター/演者と自らをどの程度同一視するかというのは問題として残りそうだ。川沿いの久美子ベンチに座って「俺は久美子だ」と思うのと、渋谷のセンター街を走り抜けて「俺は藤原竜也だ」(映画バトル・ロワイアル)と思うのとではどれくらいの違いがあるのだろう。映画は風景は現実でも登場人物自体は虚構(キャラクター)だから、虚構に重ね合わせる点ではアニメと同じ?いやでも違いはありそうだ。

来月またユーフォの聖地巡礼に行くことになっているので、周りながら考えてみたい。はたして自分は今この瞬間ここで久美子なのだろうか、とか。

大川小学校・南三陸町に行った

レンタカーを借りて、いわゆる被災地に初めて行った。

大川小学校はロープが張られこそするものの、建物は津波で破壊された姿のままだった。黒板があり、階段があり、津波が来る前までは普通の小学校だったものがそこにあった。

何十人もの生徒が亡くなった校庭には慰霊碑が2つ建っていた。自然と手を合わせた。空は大雨で、北上川はかなり増水していた。えもしれない恐怖を感じ、南三陸に向かった。

国道45号を西から走っていくと、「ここから過去の浸水地域」という標識が出てくる。ダム底に入っていくような気分だ。あたりはやたらと道路の建設工事をしている。

三陸は、防災庁舎などかつての中心部はほぼ道路工事で立ち入れない。常設となったさんさん商店街に車を停めて見渡すと、どこもかしこもかさ上げ工事をやっていた。そこに町があったなんて、全く実感できない。

観光客向けの店で真鯛とほやの刺身を食べた。座っているテーブルも、当日は津波の中。水の底で刺身を食べていた。

最後に、写真展をやっている写真館に入った。被災前の町を見渡す写真を見て、そこに町があったことが初めてわかった。

防災庁舎に避難する人たち。押し寄せる津波。次の写真では、その人たちのいたところはもう水面の下だった。

流された家の跡に供えてあったのか、故人に宛てたのだろう手紙の写真があった。

「~くんにこのメッセージが届きますように。今まで愛してくれてありがとう」

涙が止まらなかった。人がいなくなるということはあまりにも重い。

あちこちで工事をしている南三陸には、まるで「これから」開発を進める町のような不思議さがあった。

 

江國香織「落下する夕方」

大分前に買って積んでいた江國香織の「落下する夕方」を読んだ。

8年間同棲した健吾から別居を告げられた梨香が、男の恋する華子と同居する奇妙な話。

友人である勝矢の奥さん(カツヤノカナイ)、同僚の結婚はどこか遠い世界のように梨香は見る。

概して人間らしくない華子という媒介を通じて健吾と触れようとするする前半の梨香。

依存を脱していき、終盤には健吾から華子と共に湘南の華子の別荘に逃げ出す。

別荘に残った華子は自殺し、梨香はラストで健吾と同棲したマンションを離れることを告げる。

モトカナイとなったカツヤノカナイの生々しい現実感に触れた後の梨香は、

「いつか、もしいつか健吾が現実の誰かを必要としたとしても、私はそのとき、健吾の役に立てない。おなじように、健吾も二度と私の魂のよりどころにはなってくれないのだ。」

と思う。

ラスト、健吾の部屋に入る梨香。数ヶ月前は華子と出くわしたその部屋に踏み入れた梨香は「やっと地面を踏んだ気がした。かかとの高い靴を脱いで」。そして、「私は、現実のこちら側にいようと決めた。健吾にもいてほしいと願った。私の気持ちが健吾にとどいたかどうかはわからない。いずれにしても時間はすべりおちていくのだ。私たちのまわりを。」と述べられる。

江國香織さんの心のすきまに入り込んでくるような言葉遣いで述べられる梨香の心情描写が、恋人を諦めきれない心、そして離れゆく心を繊細に表現していた。